レキタビ情報局

歴史の旅(レキタビ)の紹介です。

福岡4(24.1.8)

福岡市立博物館へ行きました。

入るとすぐに金印がお出迎え。

2000年前に栄えた漢王朝が、周辺国に印を贈るのを好んだそうです。

彫った後までしっかり残っているそうです。

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そこで疑問なのが「なぜ、朝鮮では出土していない金印が日本で出土しているのか?」です。

地図を見る限り、漢にとって高句麗を挟撃(きょうげき)するには、馬韓百済)などの外交を重視した方が良い気もします。

ちなみに弁韓伽耶)は鉄資源が豊富ですが、漢でも鉄が出るため、あまり重要視しなかったのかなと思いました。

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もう一つの疑問が「なぜ、志賀島から発見されたのか?」です。

江戸時代の文献などを基に「金印発見地点」があります。

ただ、この場所を含め志賀島全体を調査したそうですが、金印と同じ時代の遺跡は存在しないそうです。

源平合戦の時、都落ちした平氏が遺棄したのでは?」など諸説あるそうです。

そういえば、志賀島の資料館に行った際も、特に遺跡の展示はありませんでした。

 


その後、遺物を見学。

朝鮮と日本の違いは何かを意識しながら回りました。

 


・銅鐸

 青銅器が、百済では若干あるが、伽耶ではほとんど出土していない。

 土器→鉄器に移行するスピードが早いイメージ。

 よく日本では「青銅と鉄が同時期に伝わった」というが、鉄が貴重なため、青銅器が多く作られた印象を受けた。

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・甕棺

 百済では、大きな甕だった。

 日本では、2つの甕を繋いだ。

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・埴輪

 百済伽耶では、それらしいものはない。

 日本独自?

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・横穴式石室

 新羅で若干あるそうです。

 日本では爆発的に流行。朝鮮半島に少ない頃に広がる。

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前方後円墳

 日本で1番古いものがあります。

 確か韓国のものは、日本より新しかったです。数もありません。

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少し前、日本で携帯電話が独自の進化を遂げました。

これを「ガラパゴス携帯」と言いました。

弥生〜古墳を見ると、日本人の共通点を感じました。


中世の展示では、新安沈没船が登場しました。

宋を出て日本に着き、その帰り道に沈没したそうです。

その割には中国の陶磁器が沢山あったような…。

日本からは、代金の銭を積んでいたはずです。

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中川(中洲など)を挟んで、右岸を「博多」と言うそうです。

江戸時代、黒田長政が中川の左岸に「福岡」という街を創りました。

ただ、博多が古く、福岡が新しい、と言うわけでもありません。

福岡には、平安時代に鴻臚館(こうろかん)という外交場が置かれました。

それが忘れ去られて、江戸時代に福岡城が建てられたようです。

博多は、ずっと商人の街として栄え続けました。

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