福岡市立博物館へ行きました。
入るとすぐに金印がお出迎え。
2000年前に栄えた漢王朝が、周辺国に印を贈るのを好んだそうです。
彫った後までしっかり残っているそうです。
そこで疑問なのが「なぜ、朝鮮では出土していない金印が日本で出土しているのか?」です。
地図を見る限り、漢にとって高句麗を挟撃(きょうげき)するには、馬韓(百済)などの外交を重視した方が良い気もします。
ちなみに弁韓(伽耶)は鉄資源が豊富ですが、漢でも鉄が出るため、あまり重要視しなかったのかなと思いました。
もう一つの疑問が「なぜ、志賀島から発見されたのか?」です。
江戸時代の文献などを基に「金印発見地点」があります。
ただ、この場所を含め志賀島全体を調査したそうですが、金印と同じ時代の遺跡は存在しないそうです。
「源平合戦の時、都落ちした平氏が遺棄したのでは?」など諸説あるそうです。
そういえば、志賀島の資料館に行った際も、特に遺跡の展示はありませんでした。
その後、遺物を見学。
朝鮮と日本の違いは何かを意識しながら回りました。
・銅鐸
青銅器が、百済では若干あるが、伽耶ではほとんど出土していない。
土器→鉄器に移行するスピードが早いイメージ。
よく日本では「青銅と鉄が同時期に伝わった」というが、鉄が貴重なため、青銅器が多く作られた印象を受けた。
・甕棺
百済では、大きな甕だった。
日本では、2つの甕を繋いだ。
・埴輪
日本独自?
・横穴式石室
新羅で若干あるそうです。
日本では爆発的に流行。朝鮮半島に少ない頃に広がる。
日本で1番古いものがあります。
確か韓国のものは、日本より新しかったです。数もありません。
少し前、日本で携帯電話が独自の進化を遂げました。
これを「ガラパゴス携帯」と言いました。
弥生〜古墳を見ると、日本人の共通点を感じました。
中世の展示では、新安沈没船が登場しました。
宋を出て日本に着き、その帰り道に沈没したそうです。
その割には中国の陶磁器が沢山あったような…。
日本からは、代金の銭を積んでいたはずです。
中川(中洲など)を挟んで、右岸を「博多」と言うそうです。
江戸時代、黒田長政が中川の左岸に「福岡」という街を創りました。
ただ、博多が古く、福岡が新しい、と言うわけでもありません。
福岡には、平安時代に鴻臚館(こうろかん)という外交場が置かれました。
それが忘れ去られて、江戸時代に福岡城が建てられたようです。
博多は、ずっと商人の街として栄え続けました。