レキタビ情報局

歴史の旅(レキタビ)の紹介です。

大分・豊後竹田(2020.10.11) 九州横断旅行2日目

大分県のど真ん中・竹田(たけた)で下車。
荒城の月のモデルである岡城を目指そうとしましたが断念しました。
 
① 竹田キリシタン研究室・展示室
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NPO法人の半分休憩室の展示室です。
そこで江戸時代の領主が、実は秀吉の時代に大阪府茨木市から移封(異動)していたことを知りました。
茨木市といえば、200年に渡りフランシスコ=ザビエルの肖像画が保管されていた場所として知られています。
スタッフの方によると、移封時の家臣40人はキリシタンであったそうです。
1637年の島原天草の乱では、岡藩(竹田藩)は幕府軍ながら、敵に攻撃すると見せかけて米などの食糧を援助したとか。
その証拠になる「兜入れ」が2018年に熊本・天草のサンタマリア館より寄贈されました。
家紋が竹田殿様のものなのが、動かぬ証拠のようです。
殿様以下、江戸時代も堂々とキリスト教を信仰した竹田。
夜になると仏像の底から十字架を取り出し祈りを捧げます。
ところが太平洋戦争のとき、敵国の宗教が禁止。
それ以降、キリスト教徒はほとんどいなくなったそうです。
厳しい弾圧のあった長崎は今でも盛んです。
緩かったが故か、文化も弱くなっていったようです。
 
明治時代、長崎からの移民が増えたそうです。
天領である長崎にはほとんどありませんが、竹田には祈りを捧げた祠などが残っています。
そのため、ちゃんぽんも伝わりました。

昼食は「つちだ」でちゃんぽん750円。
素朴で美味しかったです。
 
② キリシタン洞窟礼拝堂
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隣に祈りを捧げるホール。
近くに清めるための湧き水があるのが条件とのことです。
 
③ 瀧廉太郎資料館
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瀧は12〜14歳のとき、官僚の父の転勤で竹田に住みました。
14歳で東京の音楽学校に進進学。
23歳でドイツ留学中に結核になり、帰国後に亡くなります。
あの写真は、亡くなる直前の弱っている時のものだと知りました。